この数年、ひとり心の中であれこれ考えているさまざまなことは、「ナラティブ」という言葉に集約されるのではないかと気がついた。

ナラティブは今では広い分野で使われている用語だが、私の主な関心の対象は、その用語の発端となった文学理論よりも、「ナラティブ・セラピー」「ナラティブ・アプローチ」といった臨床心理学の分野に寄っている。それは自分の体験を物語として誰かに聞いてもらい、対話と内省を通じて傷を癒やす方法だ。

個々の人間はそれぞれ自分を主人公とするナラティブ(物語)があり、自分の経験や自分の認知する世界に意味を与えようとする。ナラティブは私的で主観的なものであるが、双方向的なものでもある。セラピーでは自分が語り手となって辛い体験を誰かに聞いてもらい、対話を通じて経験を再解釈したり、異なる意味を発見したりする。聞き手の反応によってナラティブは変化する。また、ナラティブは語り手にも聞き手にも影響を与える。

なぜ私がナラティブに関心があるのかといえば、自分のネガティブな体験を物語として誰かに向けて語ることがあまりなかったからかもしれない。黙って耐えることを美徳だと思っていたし、誤解や悪評を立てられても、ちゃんと見てくれている誰かがいた。それはとても幸運なことだったと思う。最もささやかなナラティブとは愚痴のことではないだろうか。私は他人の愚痴に対してストレスを感じやすく、よって自分もあまり愚痴を言うべきではないと考えていた。けれどもこの数年、語れないことの苦しさをずっと感じてきた。なぜならばナラティブには加害性もあるからだ。だからこそ、どんな場所で誰に向けて語るのかがセラピーでは重要なのだろう。

数年前にある漫画のセリフがTwitterで話題になった。「どんな良い人間でも、きちんとがんばっていればだれかの物語では悪役になる」もし誰かが公の空間でナラティブを語るとき、別の誰かを傷つけることがある。傷つけられた側は相手を悪とするナラティブを語るだろう。かくしてナラティブは衝突し憎悪と分断が深まる。

特定の集団で共有されたナラティブを何と呼べばよいのだろうか。思想や宗教や歴史観のことだ。その中には善悪二元論によって自分たちと異なる人々を悪魔のように扱うものがあって、ちっぽけな自分の物語に満足できない人々に憑依しては攻撃に駆り立てるのだ。このようなナラティブの外に出られない人、私と異なる認知の世界に暮らす人とどのように共存すればよいのか、いつも考える。弱者ほどこうしたナラティブに引き寄せられやすく、異論を挟めば二元論によって弱者を虐げる悪魔にされてしまう。私が公の場で自分のナラティブを語れない苦しさは、それが弱者に対する加害になりうるからである。

私は自分の体験を言葉で表現できるようになるまで何年もかかったし、その後もいろいろな視点から解釈を加え適切な表現を探し、誰にも語らず一人でずっと自分の物語をこねくりまわしている。それなりに発見もあるのだが、人生を無駄にしている気もする。さっさとセラピーを受けに行ったほうがよいのだろうか。

ナラティブの善なる力を信じたい。自分の体験を物語にして語ることの意義と効用は、いくらAIが優れた物語を生成できるようになっても代替することはできないだろう。でも優しい聞き手にはなってくれるかもしれない。そんな時代が待ち遠しい。